「神は死んだ」とニーチェが残してから100年余り。
私は、神はまだ生きていると思います。
もっと言えば、
人がいる限り、神は消えないと思っています。
これは宗教的な話ではなく、論理的な話です。
【この世界の成り立ち】という究極の疑問を考えるならば、
自然科学もしくは哲学が得意とする領域です。
現在、宇宙は無から始まったものとされています。
もちろんビッグバンをはじめとする現在の定説は、長い目で見れば修正されてどんどん覆されていくでしょう。
しかし、いずれにしろ、神が作ったわけではないでしょう。
ビッグバンを起こしたのは神だ、とするのも、あまりに根拠に欠けます。
この世界は、神が作ったわけではない。
”事実”としてそれは認めざるを得ないでしょう。
では、神を否定できるのでしょうか。
キリスト教を始めとする多くの神は、世界を作ったのは神だとしています。
それがゆえに、科学の登場で神の存在は確かに揺るがされました。
ただ、
「世界を作ったのは神ではない」と否定しても、聖書に描かれた神様像を否定することはできますが、神の存在を否定することはできません。
なぜなら、聖書の「世界の成り立ち」の章をビッグバンに書き換えてしまったら辻褄があってしまいますから。
「いやもっと別の矛盾点もたくさんある!」と反論しても、その矛盾点をすべて書き換えてしまえばよい話です。
神の存在自体を否定することはできません。
かつて語られてきた、いわゆる「神様」はいないけど、神を否定することはできない。
そんな中で、私は、神様は今も生きていると考えています。
それは別に「この世のどこかに宇宙人はいる」と言うような、そんなつまらない屁理屈ではありません。
現実世界には神様は存在しない、と考えるのが賢明かと思います。
ではどういうことかと言うと、
察している方もおられると思いますが、
神様は、幽霊と同じように、人が作り出した概念だと考えるのが妥当です。
ここで一度立ち返りましょう。
そもそも神という概念はなぜ生まれたのでしょうか。
言い換えれば、神は人にとってどのような存在か。
私は神の存在意義には大きく二つあると思っています。
①「畏怖の対象」
②「体力温存のための道具」
畏怖の対象というのは、つまり、
「畏怖の対象を作ることで社会をまとめやすくした」というものです。
まさにホッブズの著書『リヴァイアサン』のような存在。
そこで提唱されている契約論を軽く紹介しましょう。
知っている方は飛ばしてもらって構いません。
「人には自らの意志で行動する権利がある(自然権)。しかし、その状態を放置すると、他者に邪魔されて最悪の場合殺し合いに発展することもある。それでは安心して生活できず、自然権も侵されてしまう。そのため、人同士は互いに侵略しない契約を交わすだろう。しかし、それだけでは疑心暗鬼が生まれるため、不十分である。そこで、国家権力といった自分よりも強い権力を立てることで、その契約は守られるだろう。」
と言った論です。
神様もこの存在と近しい要素を持っているでしょう。
何か問題に対処するとき、
絶対的な存在を立てることで、統率が取りやすくなります。
今の感覚からすれば理解しにくいことかもしれませんが、
きっと皆さんも社長や警察といった権力にはとりあえず従うでしょう。
かつて「神」は、権力の頂点にいたわけで、
だからこそ、神の子孫とされる天皇や国王の発言が受け入れられていた。
そういうものが事実としてあるわけです。
けれど、神という存在はそのようなことに利用されてきましたが、
権威を持つ人が国の統治のような目的で神を作り出したわけではないと思っています。
すでに「神様」という存在は太古の昔から人の心の構造上、存在していたと考えます。
それに関わってくるのが、②体力温存のための道具としての役割です。
人は、何かに依存したくなる性質を持っています。楽だからです。
誰かを盲目的に信じるって、楽ですよね。
好きな人の言うことなら信じたいでしょう。
あと例えば、別に長寿が絶対的正義でもないのに、健康に悪いからと言って依存症を断とうとする。
目的があるから人は行動できます。
他にも、こう思ったことはありませんか?
「今まで信じてきた自分ルールも、よくよく考えれば、今この瞬間においてはベストじゃないかもしれない。」
けれど、そんなものをいちいち疑っていたらきりがないし、疲れてしまうので、
この世界には絶対的な正解は一つもないですが、
人は何かを信じなきゃならないんです。
誰だって、生きている限り楽を求めています。
やや本題から外れますが、楽を求める心と一緒に、人間には「好奇心」というものも備わっています。
楽をして余った体力を好奇心の向く方に使います。
だから、楽をする、というのは悪いことではありません。
体力は有限なので、望まないことでは省エネできた方が人生が豊かになります。
そうやって楽をするために人間の心が生み出したのが、「盲目的に信じられる存在」、すなわち「神様」なんだと思っています。
それは人かもしれないし、物かもしれないし、概念かもしれません。
たしかに、ニーチェの言うように、何かを目指すことに何の価値もありません。
しかし楽を求める人間は、気づかぬうちに何かを信じているのです。
だから信仰の対象として神様は、万人に共通の形ではないにしろ、
すべての人の心の中に存在していると考えています。
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