せめて心の余裕は誰かのために使える人でありたい

人間関係


以前も書いたけど、
私は「決して愛に溢れた人ではなくて、ただ優しくありたいだけの人」なんだと思っている。
相手の反応に関わらず、自分が優しくあれるならそれでいい

こんなことを言うと、自己満足のためでしかない薄情な人間に思われるかもしれない。
別にそう思ってもらって構わない。
けどそれだと伝えたいことが上手く伝わっていない気がするので、
愛とか優しさについて、私がどう考えているか語っていこうかと思う。



ーーー



私の考えを知ってもらうにはまず、この言葉を伝えるのがいいだろう。

『せめて心の余裕は誰かのために使える人でありたい』



私は優しい人でありたいとは思っているが、どうしても自分に精一杯な時はある
それは、ストレスが溜まっている時や自己研鑽に走っている時、心のままに楽しみたい時など、様々だ。
そういう“己の時間”も人生で必要だと思うし、結局みんなエゴな生き物なので、誰もその時間を責めることはできないと思う。そこは自由にやらせてもらう

けれど一方で、心に余裕が生まれたらそれを周りに還元できる人間でありたいなとも思っている。
それはどんなことに関してもだ。友達と話しているときも、道行く人が困っているときも。
相手が喜んでくれるのも私にとっては幸せの一つだし、
例え自分の優しさが相手に届かなくとも、優しくあろうとした自分に満足できる

逆に言うと、優しくない時があってもあまり自分を責めることはない
その時は「ただただ私に心の余裕がなかっただけなんだ」と割り切るようにしている。
あくまでできる範囲で優しくあろうとしているだけだ。

つまり私にとって優しさとは、「すべきこと」ではなく「追加オプション」でしかない

ということでこの言葉だ。
『せめて心の余裕は誰かのために使える人でありたい』

これが私なりの結論だ。




こんな論理的な話をすると、こう思われるかもしれない。
「夜無の中には“愛”という純粋な利他精神はないのか?」と。

んー、たしかにそうかもしれない。
確かに私は自己完結的な思想の持ち主だ。
根っからの優しい人ならこんなことを考えずとも、誰に対しても愛を以って接することができるのかもしれない。
まあでも私はこういう人間なのだから仕方がない。



とはいえ、私の考え方もそんなに捨てたもんじゃないと思う。
それは以下の話で伝わってくれると思う。

私は長いこと、相手のためにした行動が感謝されないと、内心ムッとしてしまう人であった。あいにく私は器がそこまで大きくないから。
その不満を表に出すことはなかったが、何をやっても感謝されないと、なんだか優しくするのもバカバカしくなって、その人への優しさをストップしていた。
別にそれでもいいと思うのだが、なんだかそれってかっこ悪いなとある時思った

相手の対応次第で優しくするかしないかを決めるのは、見返り欲しさに優しくしているに過ぎないんじゃないかと。
その恩着せがましさを上手く隠して世渡りするのが大人なのかもしれないが、
私にはそのような見返り欲しさの優しさがどうしても優しさとは思えなかったのだ
その、言わば”上っ面の優しさ”が気持ち悪くなって、優しくするのもされるのも無理な時期があった。

だからこそ、私は自己完結的な愛を求めたんだと思う。
結果、今では「自分のために優しくしたいんだ」という結論で落ち着いている。



改めて、
私が思う優しさ、ひいては私が思う「愛」とは、
「見返り欲しさにするものではなく、相手の対応に関わらず相手のためを想えること」だ。

もちろんそれはとても難しい。
100%の利他精神なんて夢物語だ。
それはみんな生き物なんだから仕方がない。目指す必要すらないと思う。
無理して自己犠牲の精神でいるといつか潰れてしまうし、相手だってそんな歪な優しさを快くは受け取れないだろう。

けれど、心の余裕くらいなら誰かのために使ってみるのは案外悪くないと私は思う。
どうせ余ってるならさ、笑顔を見られたら素敵じゃない。
どうせ余ってるならさ、優しい人間でありたいじゃない。

長い人生、そうは思えない時もたくさんあるだろう。
私だって明日にはどうなっているか分からない。
そんな時は目一杯自分のために生きていればいいと思う。

だけど、ふと心に余裕が生まれた時、自然と誰かのためを想えるようになったらそれはとても素敵なことだと思う。

それくらい愛は気楽なものでいいと私は思うのだ

↓前回の記事

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