哲学的にも結局「どうしたいか次第」

哲学

「我思う故に我あり」という言葉を聞いたことがあるだろうか。

数学者/哲学者のデカルトの言葉だ。

これは、「考えてる僕がいるよねー」という当たり前なことが言いたいのではない。

むしろ逆説的に、

考えてる私意外、何もない。

しかしどんなに否定しても、自分だけは残る

という真理にたどり着いた言葉なのだ。

デカルトは全てを疑った。

全て夢落ちの可能性も考えた。
全てが神のいたずらである可能性も考えた。

それでも今私がこうして考えていることだけは疑いようのない真実だ、という結論に行き着いた。

「我思うゆえに我あり」

これは実に素晴らしい洞察だ。

一分の隙もなく、まるで元素のようにただそこに存在する。


ただ、少々使い勝手が悪い
あまりに美しすぎるがゆえ、あまりにも無機質だ。
この名言を眺めているだけでは長い人生を歩めない。
「たしかに。でもそれで?」
となってしまう。


だから私は
この言葉をもう少し使い勝手のよい言葉に派生させて人生の指針にしている。


「自分がどうしたいか次第」


デカルトが言うように、自分は存在する。
だから、全てを疑っても「自分がしたいこと」というのもまた残る。


この世で確かなことは、自分が思うことしかないのだから、
自分が良くなければ、納得しなくていいのだ。

どんなに逆風立たされても、唯一の真実を曲げる必要はない。

信念は貫いた方がいい。


何事も
結局自分がどうしたいか次第
だ。

ありきたりな言葉だけど、
疑いようのない言葉だから信用できる。

ではでは。

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