心と表明

 

たとえば、公園で走っていて転んだら痛いだろう。
けれど痛いのと、「痛い」と言うのは、別のこと。「痛い」と言えば、意図の如何に関わらず、相手に(助けてほしい)というメッセージまで伝わってしまう。だから子どもの僕は、何も言わず大丈夫な素振りをしていたと思う。それは対話を諦めていたわけでも、大人に褒められたかったわけでもない。我慢するという表明が、相対的に最も的確な本心であったのだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。
これまで様々に話し様々に書いてきたが、この道理を離れて言葉を紡ぐ術を僕は知らない。

日々、内面には様々な意識が取り巻いている。中でも感情は、ときに生まれたことを呪うほどに痛烈なものである。それをそのまま吐き出せたなら、とこれまで何度くちびるを噛んできたか知れない。
しかしここでもやはり、転んだときと同じように、内面をそのまま吐き出してしまえば本心から遠ざかってしまうのである。
心は本来、自他の曖昧なもの。そこに例えば相手を想う気持ちが含まれているなら、相手にどう伝わるかまで思案を巡らせながらでなければ、心を正しく伝えることはできないのだ。

ここで誤解しないでいただきたいのは、道徳や規範の話がしたいわけではないということ。何を言うもどう生きるもそれぞれの勝手である。見ていて好ましく思えない言動は僕にもあるが、たとえ非道徳的な行いであれ、してはならないことなど何ひとつない。ただ僕個人に関して言うなら、大抵の非道徳的な行いを、僕は・・しようと思わない。迷惑をかけたくない心も本心の一部であるのに、ポイ捨てなどの心に反した言動のせいで、相手にそういう人だと誤解されて伝わるのは嫌なのである。

痛いとき「痛い」と言うこと自体はかまわない。いやむしろ、それくらい素直な方が人と支え合いながら生きられるのかもしれない。ありきたりな言葉になるが、人生に正解はないという話。ただあいにく僕の心はそういう星に生まれなかった。素直に「痛い」と言ってみたり、これまであらゆる方面から捉え直してきたが、どこまでも僕はこうなのであった。
言葉に限らず、歩む人生もまた表明である。賛同の多い道を歩むも孤高の道を歩むのも、変化し続けるも頑固に悩み続けるも、成功を追い求めるも敢えて遠ざけるも、この文章を投稿するかどうかも、自分が本当は何を考え感じているのかは、いつもたった一人で決断し、表明していかなければならない。これはどんな幼い子どもにでも立ちはだかる問題であり、そういう一面では、誰しもがじつに深い孤独を課されている。
ただしこの話を子どもに聞かせるなら、こうも付け加えておきたい。

言葉にしたことがすべてではない。
きみの言動のすべてから、歩んだ道のすべてから、どうしようもなく人柄はにじみ出ている。
その奥で何を思っているのか、僕には想像することしかできないが、葛藤していることくらい見ていたらわかる。
その末にきみがどんな表明をするのか、それがどんな表明であれ、言葉にできなくたって、僕はいつまでも見守っていることだろう。

 

 

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